HISTORY歴史

冨田家の系譜

家譜を辿ると、冨田家の祖は大江国豊で、1432年足利六代将軍の富士遊覧で京より下向した折に、三河国加茂郡冨田(現豊田市)に住み着いたといわれています。住んだ土地の名から姓を冨田としました。

その後六代を経て、冨田元右衛門重庸が1700年代前半に柴田家家臣として初代本宿陣屋代官となり、本宿村冨田家の始祖となります。

当社団法人の法人名ともなっています五代 冨田群蔵常業は、1789年に吉田藩士西岡家の三男として生まれ、1813年冨田家の養子となり1815年に本宿陣屋代官就任。郡蔵は知識人で学問や歌道に研鑽しました。また、天保の大飢饉のときに灌漑池を造成するなど代官としても勧農殖産に手腕を発揮した経世家でした。晩年は古典の研究、詠草の寄詠、村内子弟の教育等に専念していました。

1903年、十一代当主である冨田丈次郎が冨田医院を開業しました。冨田家は明治維新の際に代官職を離れ苦しいときが続きましたが、冨田医院開院により盛り返すことができました。丈次郎は患者さんに対して誠実に対応し、本人に38℃の熱があっても遠くまで往診に出かけていき、良心的な赤ひげ先生でありました。一方、菊作りから琴の演奏など多趣味でハイカラだったそうです。

二代目院長の冨田清は、戦時中、軍籍にありながら1941年に院長に就任し、軍籍を離れてからは日夜診療に明け暮れました。彼は1968年、次男稔が医師として本宿に帰ってきて、やっと泊まりの旅行にも安心して出かけられると喜んだほど本宿住民のために働き続けました。

三代目院長の冨田稔は、世界的音楽家である長男の冨田勲が医業を継ぐものと思っていたところで勲が医学部以外の大学を志望したことから、医学の道に進むことになりました。1968年に岡崎に戻り、1972年に院長に就任。地域医療に止まらず国際学会を主宰するなど神経科学者としても活躍し、国道1号拡幅工事等の地域のためにも力を注ぎました。

現院長で一般社団法人常業の代表理事の冨田裕は、1967年に生まれ、冨田家当主がもつ文武両道を備え心優しい人柄です。大学卒業後、神経内科を専攻して国内外の研究機関に属し多くの業績をあげました。2008年に岡崎に戻り、2009年四代目院長に就任。2012年に新病院が完成し、現体制が確立されました。自分を育ててくれた地域社会に対して、感謝の気持ちを持って、医療・介護に熱い情熱を持っています。また、本宿学区まちづくり推進協議会会長を務めるなど地域のためにも力を注いでいます。

冨田家は、代々、地域の経世家、地域医療への献身的な取り組み、医療以外でのまちづくりの活動等、本宿とともに歩んできました。そして、2019年、旧代官屋敷と蔵を再生して、新たなステップに入ります。

五代 冨田群蔵常業
五代 冨田群蔵常業 十一代 冨田丈次郎
十一代 冨田丈次郎 二代目院長 冨田清
二代目院長 冨田清 三代目院長 冨田稔
三代目院長 冨田稔 一般社団法人常業 代表理事 冨田裕
一般社団法人常業
代表理事 冨田裕

ISAO TOMITA

シンセサイザーの先駆者で音響作家として世界的に知られる冨田勲は、当法人の代表理事である冨田裕の伯父に当たります。

1932年生まれの冨田勲は、6歳から15歳までの多感な少年時代の10年間をこの代官屋敷で暮らしました。戦時中の灯火管制の下で、満天の星を眺めたり、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読みふけったりして天体に興味を持ったのはこの時期であり、こういった経験がその後の人生を方向付けるベースとなりました。音楽に目覚めたのもこの頃で、終戦間際、トランジスタラジオを自作して電波を拾うと今までに聞いたことがないジャズやクラシック等の音楽が耳を刺激し、その衝撃の大きさにより音楽にのめり込んでいったと伝えられています。さらに、空襲や三河地震によって大勢の犠牲者が出たことを勲は重く強く受け止め、本来、冨田家の跡取りとして医学の道に進むべきところを自分は何をすべきか、自分が本当にしたいことは何かを、この代官屋敷での生活を通じて真摯に考え、医者ではなく音楽を選んだのでした。

勲は、テレビや映画等、幅広いジャンルに多くの作品を残しています。NHKの「きょうの料理」「新日本紀行」のテーマ曲、NHK大河ドラマ「花の生涯」「天と地と」「新・平家物語」「勝海舟」「徳川家康」等の楽曲、手塚治虫の「ジャングル大帝」「リボンの騎士」といったアニメの音楽に携わる一方で、故郷岡崎では母校や近隣小中学校の校歌や旧額田町の町歌等の作曲を手掛けています。2005年には「愛・地球博」で、前夜祭セレモニー「幻想交響コンサートよみがえる源氏物語絵巻~千年の時空を超えて~」をプロデュース。2006年には、奥三河鳳来寺山の鏡岩の反射音を利用した立体音響による「仏法僧に捧げるシンフォニー」を発表し、勲の思いは常に故郷の地にあったといえます。

2016年に行われた勲のお別れの会では、「TOMITAは私が最も尊敬する音楽家」と語るスティービー・ワンダーから「今頃きっと天国で、若き日の私がいかにISAO TOMITAの音楽に感銘を受け、繰り返し聴いていたかを、私の母親から聞かされていることでしょう」という内容のビデオ弔辞が届けられました。 みなさま、本宿旧代官屋敷にお越しくださり、くつろぎの時間をお過ごしくださいませ。

ISAO TOMITA ISAO TOMITA

冨田家旧主屋

「元禄の世直し」から明治維新に至るまで柴田家家臣として陣屋代官を世襲した冨田家の旧主屋は、その代官屋敷の遺構で、1827年(文政十年)に上棟されたものです。

この建物は、桁行十間、梁間六間半、切妻造、平入、二階建、桟瓦葺の建物で、屋根上部に煙出しを設け屋根背面を葺き下し、柱は面取角柱で居室部分の柱間に差鴨居を入れて軸部を固め、小屋組は登り梁として二階部分の居室空間を確保しています。全体に木割が太く、江戸時代後期の格式ある住宅建築で近世の姿をよくとどめています。

在地の武士住宅の遺構となる冨田家の旧主屋は、平面が農家の六間取りに近いですが土間が狭く、矩折れに接客空間を設ける空間が往時のこの地域における住宅建築の技術的、様式的な指標ともなっています。なお、この建物は2017年に岡崎市より歴史的風致形成建造物に指定されました。 みなさま、この歴史的に価値がある建造物である冨田家旧主屋にお越しくださり、江戸時代から続く歴史の滔々とした流れをお感じくださいませ。